08.2.23 
演題「奈良のみほとけたち」

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わたしたちの国は、日本すなわち日の本といいます。日がのぼるところという意味です。日の下と書いて日下さんという名字がありますが、これも日の本と同じ意味です。横綱のことを「日の下開山」といいますが、あれは日本一の強者という意味です。

 九州には日向という地名があります。日に向かうと書きます。神武天皇が、東に向かって軍を進めはじめた場所で、ヤマト王権を考えるうえで、たいへん象徴的な地名だと思います。

 そして遙か東のかなたには「ひたちの国」があります。今では日が立つと書きますが、語源は「日高見の国への道」という意味の「日高見道」であると聞いています。日高見の国とは今の宮城県、秋田県あたりを中心とする東北地方一帯をいい、「常陸」の語源は東北へ行く道ということです。 

 常陸の国には、奈良の春日大社のルーツである鹿島神宮、そして利根川の対岸には香取神宮があります。神宮を名乗るもっとも古い記録として、古事記や日本書紀には石上神宮(天理市)と伊勢神宮のふたつだけが記されていました。そして石上神宮と深い関わりのある物部氏というのは河内あたりを根城にした豪族で、その名前が表しているように鉄器などの武器や軍事物資を生産管理した一族のようです。平安時代初めの記録には、石上神宮に加え、東のはての鹿島、香取が神宮として記載されていますから、この両神宮が、いかに重要な戦略拠点であったかが伺われます。祭神は、いずれも武力の神様であり、東国進出のための軍事基地であったのではないかと想像されます。物部氏の香取神宮、藤原氏のもとになる中臣氏と深い関係にある鹿島神宮という日本でたいへん古い神社が、東の遥かかなたにあるわけです。

 ちなみに神宮という神社の格は、天皇の許可によってのみ賦与されます。近代になってから明治神宮と平安神宮、橿原神宮が加わります。

さて日向から瀬戸内海を通って堺に上陸して、竹内街道を通って河内平野から東を見ると、二上山というふたこぶらくだの脊の様な特徴のある山があり、そこから太陽が出てくる。そこを超えると、ちいさな三つの山のある穏やかな平地がある。そこは三輪三山でありアスカ地方です。

三輪三山の三輪山は、山そのものがご神体であり、古代日本の最大の聖地です。出雲の大国主尊が国譲りされ、海のかなたの光をもとめてこの地に到り、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)という神々を祭られ、ご自身も祭神となられたとの伝説の地です。

【荒魂、和魂】

 神道において、おおまかな神概念はこのようになっているそうです。古代の日本人は、このような神概念の基盤をもっていたところに、仏教が入ってきて、それをこの神概念に沿うかたちで受け入れていきます。そして、やがて和魂は如来や菩薩の恩恵であり、荒魂は明王や天部の威力や懲罰と考えるようになり、神仏習合というわが国独特の仏教のありかたへと発展していったわけです。

明治初年、神仏が分離される前までは、この三輪山のご神体の「和魂」の本地仏として十一面観音が祀られていました。ここで奈良のみほとけをひとつご紹介することにします。

聖林寺・十一面観音立像は、廃仏毀釈の時代、近在のひとびとが穴に埋めて守ったとの言い伝えのある、天平時代の最高傑作のひとつです。木心乾漆造のこれだけすばらしい仏像をお祭りしていたこの神社の当時の格の高さが想像できます。

そのころの奈良盆地は、ヒノキなどの原生林と湿潤な湿地帯が拡がっていたことと思います。

「アスカ」という不思議な響きを持つ地名は、じつは全国にいくつか存在するようです。

大阪の河内地方もかつてアスカと呼ばれたようですし、広島県や三重県、静岡県、岩手県、青森県などにもあるそうです。アスカの語源には、「安心してくらせる所」という説や、湿地帯の水辺であるというようにいくつかの説があります。

 もちろん飛ぶ鳥と書くのは、アスカ地方の枕詞から来ているのはいうまでもありません。内陸の森林地帯ですから、たくさんの鳥が飛び交っていたのではないでしょうか。

またその東の朝日が昇る峻厳な吉野の山々を越えて海に出ると、「磯の神」であるイセです。

【逆さまにした東アジア地図】

 ここで、もうすこし視野を広げてみましょう。
 東アジアの地図を南北逆さまにしてみますと、古代の東アジアのひとびとの動きがとてもよくわかります。この方法は、近年亡くなられた歴史学者の網野善彦先生が提唱しておられました。もっとも、古代から中国の皇帝は、北極星を背にして南を向いて座るとされていましたから、中国のひとびとは東アジアをこんな風に認識していたのだと思います。

 日本列島には、朝鮮半島からやってきたひとびとの他に、大陸から黄海を渡ってきたひとびと、沿海州から日本海を渡ってきたひとびと、東南アジアや南方から黒潮に乗ってやって来たひとびと、カムチャッカの島づたいにやってきたひとびとなど、さまざまなルーツをもっている人たちがいて、私たちは彼らの混血民族です。もちろんヤマト王権の中枢や豪族の多くは、言語の共通性や、古墳や出土遺物から判断して朝鮮半島からきた種族が中心であろうと考えられますが、さまざまな血の融合があったようで簡単には説明できません。しかし古墳時代のころからは、あきらかに朝鮮半島南部のひとびとが中心になって、ヤマト王権を形成していったのだと考えられます。

 日本列島への移住の原因は、朝鮮半島の政治情勢が密接に影響していますが、彼らは北九州から出雲、若狭、越の国などに小さな国を造り、京都盆地、紫香楽、大阪平野から奈良盆地に移り住んだひとびともいたのでしょう。そして東日本へ、東北へと朝日が昇る山のかなたの土地を目指して進んできたわけです。アメリカ合衆国が西へ西へと夕日を追いかけたのとは正反対です。

「ナラ」の語源を、古代の朝鮮語の「国」を意味する「ナラ」にもとめる説もあるようですが、私はそうではないと思います。単に「国」という意味なら、おそらく日本中に「ナラ」とつく地名がもっとあってもよいと思いますが、アスカの地名よりも少ないように感じます。もちろん、朝鮮半島や大陸からたくさんのひとびとが長い年月をかけて日本列島に移ってきたことを疑う余地はありませんが、ナラが朝鮮語のハンナラやウリナラには直結しないと思います。

 おそらくナラは、踏みならす、なだらかにするという意味で、新しく開拓した土地という意味であると理解するのが自然だと思います。平城京の「平」という字を用いた理由も理解できます。

  地名の話のついでに、もうひとつ、脱線します。

 私の東京芸大の研究室は、京都や奈良だけでなく、関東地方の仏像調査もしています。茨城県の内陸に、真壁郡大和村というちいさな集落がありました。ここは、平地にいくつかの山がぽこぽことあって、まるで三輪三山のあたりを連想させる場所です。その山のすそ野や頂上に古いお寺が散在しています。そのひとつ、雨引山楽法寺は創建を6世紀にまで遡る祈祷寺院で、皇室にご懐妊の慶び事があるたびに、安産祈願の腹帯を献納してきたことで知られています。

 奈良時代の末から平安時代の初めにかけて、藤原氏の支援を受けた興福寺の僧侶がこの一帯から福島県の会津地方にかけて進出し、たくさんの寺院を建立しました。そして望郷の思いや、また奈良の風景に似ていることから「大和」という地名になったといわれているのです。

 最近の町村合併によるたいへん乱暴な地名変更で、桜川市本木という表示になって、大和村という由緒ある地名が消滅したことは、なんとも残念な気がしてなりません。

では古墳時代以降、ヤマト王権から奈良の朝廷へと移っていったありさまを、ミヤコ(宮)、即ち天皇のお住まいの移り変わりを追って見ていきましょう。

さて、前振りだけでずいぶん時間を取ってしまいました。まだお話しの用意はしていましたが、端折ることにします。

 今後、2010年の平城遷都1300年祭に向けて、奈良のみほとけについてはさまざまな機会にたくさんの方々がおはなしになることと思いますので、そちらへバトンタッチすることにいたします。

 それで、トピカルな話題として、先日、運慶作と考えられる大日如来坐像が、なんと来月、ニューヨークで開催されるクリスティーズのオークションに掛けられるという衝撃的なニュースが入ってきました。

 このお像は、数年前に個人の方が栃木県の骨董やさんから偶然手に入れられたものですが、調査を依頼された東京国立博物館によって運慶作である可能性が大きくなって、しかもX線調査で、胎内に木札と水晶の五輪塔も確認されて、一躍注目されました。その後文化庁は所蔵者に、重要文化財指定の打診をしたり、国立博物館での購入を申し入れたりしましたが、不調におわったといういわく付きの仏像です。

 これがはたして日本人が落札できるのか、国外流出してしまうのか、まだわかりません。私どもの研究室でも一昨年、このお像の詳細な調査をさせて頂いておりまして、他人事とは思えない気持ちで見守っています。

 そこで今日は、この像を造ったであろう運慶さんが、25歳の若き日に取り組んだ奈良市・円成寺の大日如来坐像の模刻像を持ってきてもらっています。この像を東京芸大の修士研究として造った藤曲隆哉くんは、いまは私の研究室の助手として後進の指導をしてくれています。めったに見ることの出来ない運慶の仏像の構造や特徴などについて、彼から説明してもらいたいと思います。

【奈良のみほとけの仏像材料の変遷】

  
飛鳥〜白鳳時代(6〜8世紀)

クスノキ/法隆寺・百済観音、救世観音、中宮寺・弥勒半跏像
アカマツ/広隆寺・弥勒半跏像
銅/飛鳥寺・釈迦如来坐像、法隆寺小金銅仏
塑土/岡寺・如意輪観音(頭部)

天平時代(8世紀)

ウルシ + ヒノキなど(乾漆像
脱活乾漆;藤井寺・乾漆千手観音坐像、東大寺法華堂・不空羂索観音立像、
興福寺・八部衆、十大弟子
木心乾漆;聖林寺・十一面観音立像
銅/東大寺金堂・廬舎那仏坐像(台座蓮弁の一部)
塑土/東大寺三月堂・執金剛神立像、東大寺戒壇院・四天王立像、新薬師寺・十二神将立像

天平時代末期(8世紀)

ウルシ + ヒノキ(乾漆像)/秋篠寺・仏像心木および断片
カヤノキ/唐招提寺・如来菩薩群、

平安時代初期(8世紀)

カヤノキ/法華寺・十一面観音立像、
ケヤキ/勝常寺・薬師如来、カツラ、サクラ

平安時代中期(9世紀) ヒノキ/岩船寺・阿弥陀如来坐像(946)
平安時代後期(10〜12世紀) ヒノキ/平等院・阿弥陀如来坐像、長岳寺・阿弥陀三尊像、円成寺・大日如来坐像
鎌倉時代(12世紀〜)

ヒノキ/東大寺南大門・金剛力士立像、興福寺北円堂・弥勒仏坐像、無着世親、
興福寺・天燈鬼、龍燈鬼

 
【仏師系図】

 

                




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