日本仏像史における円空の位置づけ
 1500年前に仏教が伝わったわが国は、数の面でも質の面でも、東アジア屈指の仏像王国です。しかも、その多くが、国民によって今なお信仰の対象として大切に守られている点でも特筆に値します。6世紀中頃から始まったわが国の造仏活動は、近世に至るまで国家事業、公共事業としての性格が強かったといえます。最古の仏教寺院と言われる法興寺(飛鳥寺)は、当時最大の豪族であった蘇我氏が、仏教の先進地域であった百済に倣って、総力を挙げて建立したものです。その後、聖徳太子らによって建立された大阪の四天王寺や飛鳥の法隆寺などの造寺・造仏も、対外的な威信をかけた国家事業でした。天皇が発願者となっている白鳳時代から天平時代の造仏事業は、唐をお手本とした鎮護国家を実現するための事業でした。その制作には、朝鮮半島や大陸から招聘された練達の工人たちの一族と、彼らの指導を受けた最高峰の技術者たちが従事しました。これは、現代の宇宙開発や原子力事業などと同じ位置づけでしょう。彼らは、しっかりした意匠や技法を身につけ、儀軌に従って多くの種類の仏像を制作するアカデミックな仏師でした。この流れは、平安時代から鎌倉時代を経て南北朝の動乱で天皇や公家が衰退するまで続き、それ以後は、浄土教の庶民信仰や禅宗などの各宗派による寺院の造立が中心になり、仏像は形骸化していきました。
 アカデミックな造仏が中心であった平安時代ですが、その中期(10〜11C)に「鉈彫り」といわれる特異な表現の仏像が例外的に造られました。この時代には、仏教が全国に広まることによって仏像の需要が激増し、また密教や神仏習合の影響を受けた寺院が山岳地帯に造られるようになりました。その結果、都の正統的な仏師だけでは手が回らなくなったために、専門的な技倆を持たない杣人や建築工人が造仏にかかわるようになったことが原因だと考えられます。動勢表現が硬直化し、まるで未完成のような荒削りで稚拙な表現から、正統的な仏師の仕事ではないことは明らかです。その造形が、600年後の円空や木喰と共通していることは、大いに注目されます。果たして円空たちがこうした像を見て感化されたのでしょうか?・・・・云々